U2-HOUSE
13 家をたてました 「テレビ」
2004.03.25
年末年始に自分の失敗からまたまた山嵜雅雄建築研究室さんのお世話になりました。内容は他者を含んだ話なので今は書けませんが、時間がたち、物事が落ち着き、頭が整理できたら書けるかもしれません。山嵜さんは遠山の金さんのようにかっこ良かったです。またお仕事お忙しい中、山嵜さんを連れ出してしまい、事務所の方々には沢山のご迷惑をおかけいたしました。どうもすいません。そしてありがとう。
そしてなにより徒労に終わらず、結果が出せたことが本当にありがたいです。
そしてなにより徒労に終わらず、結果が出せたことが本当にありがたいです。
それでもめげずいつものようにバットな話を少し…。 ( こりないなあ〜 ) 若いときはいっぱいレコードを買ったのに今ではほとんど買わなくなったとか、映画はいっぱいみたけれど今ではテレビばかり、たまにハリウッドものをビデオでなんて人は結構多いのではないだろうか。
仕事に生活の多くを費やせば余暇に回る時間が少なくなるのは当たり前、疲れ果てたときには瞬時に忘我の世界に引き込むテレビは最高、だから忙しくても実のところ1日1,2時間テレビ漬けとあいなるわけです。人それぞれバランスというものがあるから、それを簡単に悪いなんて言えませんし、かなり切羽詰まっている場合だってあるわけですから対処治療の薬ぐらいの利き目はあるわけですよね。それでも結局は根本治療にはなり得ないだろうし、続けていれば逆に人間が弱ってしまうし、正直言うとちょっと貧しいなあと思います。
テレビでも内容の深い、いい番組はあるし、たとえお昼の内容のない定番番組でも実はすごいと思ったりもします。だって本当に内容がまったくないのですから。これはもう意識的にそうしているのだから。テレビの現在におけるメインメニューはなんと言っても娯楽だし、娯楽の王道はつまり我を忘れさせてくれる ( つまり癒し? ) ものだと思うのですがどうでしょう。現代はストレス社会 ( ? ) だそうだし、 ( ストレスなんて本当はいつの時代にも形は違えどあるし、ある意味ストレスは人生の楽しみでもあるのに<苦しみでもありますが> ) 。つまりはストレスに対応できなくなった身体、精神、回避できない運命とでも言ったものが問題なのでしょうけれど、身体 ( 精神も ) は大事にしているだけでは強くなりません。負荷 ( 運動 ) をかけなければ衰えてきてしまうものですよね。回避不可能な運命ですら心の持ちよう、考え方によって超えられることもあります。
それでもテレビで我を忘れて大笑いということでしょうが、実は毎日我を忘れているようにも思うのですがここまで書くと何でそんなに敵をつくる言い方しかしないの、頭悪いという声も聞こえてきそうです。みんな癒されたいのだからいいじゃないなんて声も聞こえてきそうですね。それでは逆にそんなに癒されたいのかと思ったりもします。死なんか意識しない生き方、生なんか意識しない、まさに刹那。そのくせ隙間に入る孤独や妄想におびえているのかな。電車の中で携帯電話にすがるホリックな人。
言い過ぎました。すいません。自分自身にもそういう部分があって、そうなりたくないと思う自分がいるわけです。
6年前、テレビを見るのをやめることにした。とりあえず一ヶ月まったくやめてみた。驚く事にたかだか1カ月テレビを見ないのはたぶん自分の記憶がある生涯で初めてだったのかもしれなかった。前々からもうテレビはいいやと思っていて、実行する機会を1998年のワールドカップ ( サッカー ) が終わったらと決めた。
自分の辞書からテレビはもういいやということでなくした。そうしたらテレビがどうでもよくなってしまった。やめる前には嫌いといった嫌悪感 ( あまりにも酷い報道とかね。 ) があったけど、やめちまうとたいしたことではなくなった。奥さんや息子と話をしてる方のがたのしいし、音楽を聞いてる方がいいです。情報だって本当に必要なものなら耳に入ってくるし、基本的に自分の生活にテレビを見る習慣がなくなると、その存在が許せてきた。今では見る習慣がなくなってしまったけれど、たまには見ることもある。どうでもいいから〈建物探訪〉とかをたまに見たりする。
うちにはダイニングにテレビはない。リビングにもない。子供は寝室のベッドの上で14型のモニターで機関車トーマスを見ている。 ( 子供には親の理屈を強要することはしていません。 )
ここまでひっぱって書いて来ましたがテレビはなかなかやっかいなものだと思います。テレビなんぞのことを書きたくもなかったのでありますが、家を考えた場合、テレビの存在はかなり大きいように思います。実際、テレビが家の中心になっている御家庭は多いのではないでしょうか。夫婦の間にテレビがあり、子供との間にテレビがあり、一家がテレビで支えられていたりしませんか。極度にテレビに依存している生活をしている方はもうもどることはできないし、戻りたいとも考え無いでしょうが、何かテレビって変と思っている方もたぶんいるのではないでしょうか。
戦後のテレビは確かにいいものだったかもしれません。灯りがともった家に、貴重な情報として、娯楽としてテレビはあったようにも思います。一家がテレビのある部屋に集まって、各々が和やかに付きつ離れず寄り添っていた頃です。しかし今では従来のテレビの役目はほぼ終わっているのではないでしょうか。逆にテレビが家族の弊害になっていたりはしないでしょうか。つまりテレビ放送と言う側面です。テレビを否定しているのではありませんがテレビを身の丈にあったものにしていくことは、これからの使い手側の問題であるように思います。
テレビからよりも最小のコアから、最小の自分達の生活から社会や世界を見ていくことの方がいいように感じます。破壊的なことや、恐怖心をかきたてる上から降って来るニュースなどより、身体感覚のある、身の回りのことからのニュース、考え、行動していくことの方が健康的だと思います。たとえば我が家だったら屋上の畑の土や虫から社会を見る事とか、隣人とのよい付合いとか。こういうのは実は奥さんたちの方が実際に直面していることで私などが偉そうに語る事でもございませんが。
ストレスから逃れるためにテレビを見て、実はテレビからストレスをコントロール不能の次元まで高められてはいませんか。 ( なんだか医薬品のように ) 身体感覚が稀弱なものはそういうことが多いように思うからです。
昔は良かったと生活や時間を戻す事は出来ません。またそうする必要も無いでしょう。 ( 自給自足の生活に憧れる方もこんな社会ですから多いようで、そんな雑誌なども目にすることがありますが、あれも何だかなあと思います。簡単に言っちゃえば閉じすぎです。 ) 節度があることは決して抑制思考ではありませんし、知的な生活を、バランス感覚のある生活を標榜して行きたいものです。
そのためにテレビの処遇を今一度、家を建てられるかたは考えてみてはどうでしょうか。建築的にもテレビは ( 最近ではまだましな物もあるようですが ) 厄介ですから。
ホームシアターはいいですか?
僕らは映画が好きですから、できるだけ映画館で見ようと考えます。
スペースをうめるテレビはいいですか ( 精神的にも物理的にも ) ?
本や音楽や生活の楽しみをもっと…。
若い時に猛烈に意識を集中してみた映画や本や音楽は今の僕らの価値観や思想に影響しています。まさに血になり肉になっています。いいものには発信するほうも重要ですが、受け手もちゃんと意識を高めなければ理解できないし、感動もできないでしょう。ゆるいソースもいいですが、また一生懸命、本を読んだり、映画を見たり、コンサートに行きませんか。 ( あっ4才の息子がいた。今回はファインディング二モか、やっぱり。でもデェズニーは今回かぎりにしたいなあ。次回はA.デプレッシャン、P.ガレルかJ.Lゴダールがいいんだけれど…。 )
そして、その瞬間しかない、美しい風景や一期一会を感じに外に出て、目を見開いて、目を閉じて感じませんか。