U2-HOUSE
17 家をたてました 「身体」
2004.11.29
落葉樹の葉は落ち、木々の間から射す朝のオレンジの光の中、朝露に濡れたマットの様な焦げ茶色の落ち葉を布団の上を跳ねるように軽いジョギングをしながら通り過ぎて行く。瞬間の風景を言葉にすることもできないまま、体を包む嬉しさと、身体の重さと呼吸の苦しさを感じ、冷たい空気から身を縮めそれでも気持ちいい感覚を含み、過ぎ去って行く永遠たちを見ながら、次の未来に移動していく。
休日の雨が降っていない日にはだいたい、近くの公園に走りに行くようにしている。身体が固く、身体が重いことが負担になってくるので、柔軟体操と筋トレをかねて僅かばかりの朝の体育の時間とあいなった。身体はしんどいのだが、移り変わる公園の風景はなりよりのごちそうで、今日もこの後でかけることにしている。
インターネットのような余りに身体性のない頭脳世界にいると体というものを忘れている。たとえば楽天でワインを買うことはできるが実物は見ることはできないし(直感が働きにくい ) 、何本か買えばそうとう重いものなのに重さもなく、店に足を運ぶ機会もいらないから声もいらない。
建築の設計などもまさに身体性がない世界ですよね。具現化するには施工者がいないとそれは建築ではないわけなのですから、そういう身体性のないものを扱っているときはよりいっそう身体を意識してやらないとバランスを崩します。
東洋人であります僕は基本的に二元論ではありません。身体と心を分けるなんてちょっとおかしいと思っている人間です。頭から思想や考えは生まれるものではなく、身体、宇宙もっと言うとすべての中から生まれて来ると思います。なんだかぶっ飛んできちゃいましたね。それでももうちょっと続けます。
例えば胃が痛むとします。もちろんそれは単なる胃と言うパーツだけが問題になっているわけではない。何でそうなるのか、身体という全体からそれに至る環境 ( ストレスとは、食事 · 生活 · 環境とは、先天的問題等様々 ) を含めて考えるべきと思います。
身体性を無視したところは正直言ってうさん臭いものを感じます。結局まるを ( 全体を ) 見ていないというのか、何かかけている ( チープな ) 感じがします。
今回は身体性です。このコラムはできるだけ我が家から ( 僕らにとってのコア、身体から ) 文章を書こうと思っていましたが、今回が逆接的に抽象的、建築家的、ネット的に頭デッカチ的に進めて、尻つぼみで爆発となる予定です。
あいかわらずのしろうとの言いたい放題、ご勘弁を。
最近の建物を見ていて感じることの一つが、〈シンプル〉と言う記号が目に付くことだ。ミニマムで表現しようと言うやり方だ。たとえば階段の手摺を最小のパーツ、フォルムで機能させる表現とか、ああいうやつ。別に悪いことではないし、ひとつの到達点なのかもしれませんが、最近は特に偽者の匂いを嗅いでしまっているのは僕だけではないはずです。欧米でのゼンとたいしてかわらない気がします。本質ではなく形や精神性という記号のデザインだけのもの。 ( フランスではゼンはもう当たり前のフランス語になっていますが、簡単に言っちまうとシンプルはかっこいい、スノビッシュでしょと言う感じです。最少で全てを表現できる、隙がない=イケテルとなるのかな。もうちょっとたぶん深いのでしょうが…。 )
よく耳にする‘スッピンの家’コンセプトなんかも頭でっかちで同じもののように思います。
よく耳にする‘スッピンの家’コンセプトなんかも頭でっかちで同じもののように思います。
ドイツ的な、バウハウス的なものは僕個人としては好みではないけれどデザインにまだ余裕があり、魂を感じられる要素があるように思いますが今の建築のそれはカッコだけのスノビズムで外国人のゼンとたいしてかわらないように感じます。削ぐということのファッションでしかないと思います。
カッコつけて ( 修飾して ) 本当にかっこいいものはなかなか無いのも事実ですが、だからと言ってあれでは日本のわび、さびとはフォルムが似ていてもまったく似ていない、繰り返しっちゃいますが、精神性のフォルムをまとった、作り物を感じてしまうのは僕だけではないでしょう。
デザインなんで所詮そんなものとクールにならないでください。血や息を吹き込んだものは美しいし、長寿になると思います。たぶんあーいうのは時間とともに風化してしまうと思います。20年ぐらい前だったかなあ、黒が流行して、家具もチープに黒い塗装を吹き付けた物や黒のコンポにもちろん服もそうだったよね。今残っているのはギャルソンぐらいでしょ。たぶんそこには魂があるからだってみんなわかっているよね。
しても、スローライフ、スローフードなどとナチュラルを演出しても、結局その家が、その人たちがそこにスピリチュアルを持ち込まなければ、たんなる流行<ハヤリ>でしかない。
流行のどこがいけないのなんて言わないで下さいね。いけなくはないのですから。どうぞ。
修飾しても美しくいられる最大のポイントはたぶんスピリチュアルがあるかないかで決まるように僕には思います。 たとえばギターリストのチャーなんてたぶんそんな感じがしませんか。プラダ的視点からいえばださいおっさんになったり、ギャル系グランジ ( すでに死語か ) 的に見ればラッパズボンは同じでも全然別物。でもそんなもの比較にならない。美しいのだ。
もとにもどってシンプルでも同じこと。最近の建築はシンプルという流行のものが多く、そこに至るスピリチュアルがない。または削ぐというファッションでしかない様に感じることが多いです。
安藤さんの建築の魅力は似ていて異なるもの。たぶん闘っているから ( 魂があるから ) だと思います。
さてここまではほとんど批判ですよね。これではしょうがないのでもうちょっと続けます。
もうだいぶ前だけど、ロックは死んだなんて言われましたよね。それは今のロックバンドは圧倒的にスピリチュアルがもてない、形だけなのだ。だから死んだとあいなるわけだ。 ( もちろん魂の入った音楽を作っている方も今でもいますが。 ) 現在では、物質的にはある意味、豊かになったけど、逆に人間個人はより自閉的になり、もっと酷いと魂のスペースさえ埋め尽くしっちゃたりして。本質的なるものが出にくくなっている。ロックもしかりでスピリチュアルが持てないのだ。
もうだいぶ前だけど、ロックは死んだなんて言われましたよね。それは今のロックバンドは圧倒的にスピリチュアルがもてない、形だけなのだ。だから死んだとあいなるわけだ。 ( もちろん魂の入った音楽を作っている方も今でもいますが。 ) 現在では、物質的にはある意味、豊かになったけど、逆に人間個人はより自閉的になり、もっと酷いと魂のスペースさえ埋め尽くしっちゃたりして。本質的なるものが出にくくなっている。ロックもしかりでスピリチュアルが持てないのだ。
それはマーケティング的発想が力を圧倒的にもってしまったからだと考えています。
今のシンプルはバブリーの鬼っ子として育って来ました、最初の頃は多分魂を持って ( しょせん鬼っ子としてですが ) いたはずですが、華奢な体質だからあっという間に資本に食い尽くされて、本質は形骸化し、形だけの商売道具に変わってしまったわけです。ホーム会社や建て売り業者でも今では建築家風家 ( シンプル路線 ) をマーケティング的な発想で採用し、不動産屋さんも建築家さん風を建築家に建てさせているから魂は自閉し、外に出にくい状況が続くように思います。
資本主義の中で生きるには金は必要だけれど金は結局、金から自由になるためのものでしかない。
結局初めに金ありきの経済至上主義構造では魂はついてこれないのはもう直感が働く人ならみんな気が付いているのに、なかなかできない方向に進んで行く。 ( いきなりわけわからないですね。ついて来れる方いると助かります。もう少しです )
ぶっ飛びます。家の近くのケーキ屋さん、ここは感動的にうまい。しかしマスにはほとんどでてこない。歴史もあるところですが。それはなぜか?金か豊かさのうち、豊かさを取ったからだと僕は思っています。
美味しい物をつくるという魂にとって金がじゃまだったからだと思います。
魂だ、スピリチュアルだ、から、金の話に移ってきてしまいました。
それでは尻つぼみで爆発の方向へ;魂は社会主義と資本主義の平行が壊れアメリカ型資本主義 ( こいつは原理主義という鬼っ子を両方向につくる名人 ) に集約されて行く中で住処を見失った。魂を復権するには2元論で分裂してしまったもう片方の大事な物、身体を意識し、結合していかなくてはだめでしょう。
フォルムだけのシンプルはつまらない。たとえ隙がなくても意味も無い。もっと有機的に身体性、人間にとっての根本からのものを意識していかないと、いいデザイン、いい家は増えてこない。
たとえば機能優先の家が身体から根ざしているか、やっぱり頭からのものか。そして、風呂サイズは身体からあわせているか、階段デザインも身体から発想しているかという結論です。
過去の家のことではござりません。これからの家についてです。未来の施主さんキーワードは身体です。その中にはかならずや魂が入り込むはずです。そうすれば流行で終わることのない、いいデザインが生まれてくるはずです。経済ベースだけではだめですよ。魂なくなっちゃうから。
しょぼい話になったところでおしまい。まったねー。